Lake
Michigan

アメリカとカナダの国境地帯に位置し、氷河期の名残りとも言われる Great Lakes(日本名「五大湖」)のうち、南西のポジションでほぼ南北に 494km、東西には 190km、その水面の面積は 57,750 平方km という Lake Michigan は、その周辺に Chicago でお馴染みの Illinois 州から時計廻りに、Wisconsin、Michigan、Indiana の各州を持ち、その内水面は、交易の手段としても周辺各都市の発展に影響を与えて来ました。
中でもメジャーな存在と言えるのは、まずブルース・ファンならば、その正確な位置は知らなくても、名前だけは知っている、とされる Chicago でしょう。
湖の南端近く(実際の南端は隣接する Indiana 州になります)の西岸にあって、Windy City と呼ばれるその風の強さもまた、この Lake Michigan に由来するものでしょう。
湖の周辺で次に大きいのは、Chicago から湖岸伝いに北上し、湖全体から見れば下三分の一あたりに位置する Wisconsin 州 Milwaukee となります。
一方、東側の対岸を占める Michigan 州では、さほど「大都市」と呼べるものは無く、対照的な貌を見せていますね。
また西岸にしたところで、Milwaukee から北には同様にあまり大きな街はありません。

全米屈指の大都会(人口で第三位)である Chicago という巨大な消費地を核に据えて、南は Indiana 州 Gary あたりから、北は Milwaukee あたりまでが、充分にその「経済圏」である、と言うことが出来るでしょう。
その Milwaukee よりもさらに北、Chicago からはおよそ湖岸伝いに 170km、というところに Port Washington という街があります。

Wisconsin
Chair
Company

Paramountはもともと Wisconsin Chair Companyつまり Wisconsin州 Port Washingtonおよび Graftonで廉価な家具や学校に納入する学童用の椅子などを作っていた家具製造会社なのですが、Port Wasgingtonを襲った 1899年の「大火」からの復興を急いでいた 20世紀初頭の企業努力の中、Edison Co.のために蓄音器のキャビネット*を手がけるようになって「レコード産業」と関わりを持つようになり( 1914年から、と言われています)、1915年の末には自らの手になる Phonograph「Vista」を製造販売する the United Phonograph Corporationをスタートさせています(ただし、この試みは成功した、とは言い難いようですが)。

* ─つまり、ハンドルでゼンマイを巻き上げて、78回転のレコードに真鍮のパイプの先に付いたダイアフラムのピック・アップを乗せ、ダイアフラムの振動がメガホンの要領でラッパから音が出る蓄音機は、ヴィクターの犬が聴いてるのでご存知の方も多いと思いますが、あれは実はポータブル・タイプでして、リヴィング・ルームなどに置くものはラッパではなく、リッパな家具のようなキャビネット内部がいわばバック・ロード・ホーンのようになっており、美しいウォールナット仕上げなどで磨き上げられ、調度品としても鎮座していたのです。

1913年にイギリスから流れて来て、Wisconsin Chair Companyで蓄音器を立ち上げる際にそれを担当し、さらに追求(?)するために一時 Edison社に行っていた Arthur C. Satherly( Bristolの出身ながら、通俗小説が扱う「西部」に憧れて渡米してきたもののようです)が戻って来たこともあり、さらに一歩踏み込んで、1917年( 1918年としている資料もあります)にはそのレコード盤も作り出すようになり、Fred Dennett Keyに率いられたその部門を Paramount Recordsとしたものです。

Shellac

Satherlyは一般的なシェラックを混入させたクレイという盤質を、椅子製造業者としては手慣れた工法であるワニスの一種を使用する方式に改めさせた、と言います。これはその材質の均質性から、ややトラッキングした際のスムースネスには欠けていたようですが、スタンピングによるプレス工程の生産性が良く、それもあって後には他社からプレス工程だけを請け負うほどになっています。

ただし、それがもしかするとこの Paramountの、後に言われる「盤質の悪さ」の原因となっているのかもしれません。
あいにくこの当時の音盤を詳しく検査してみた経験も無いし、それに関する資料にも遭遇していないため「定か」ではありませんが、ひとつの可能性として留意する必要があるかもしれません。

この新生 Paramount Recordsは、最初、中西部に多いヨーロッパ系移民の一世を対象とした(それぞれの郷里の)民族音楽のリリースから始まったようですが、その延長としてか、国内メジャーがあまり重視していなかった当時のニッチ・マーケットにも関心を示し、やがては 1920年代の Ma Rainyを始め、Blind Lemon Jeffersonなどのレコードも手掛ける、レース・レコードの重要な存在となったのです(このシフトにも Satherlyが噛んでいる、とも言われています。1921年から出現してきたラジオに対し黒人層をターゲットにすれば、まだまだレコードはイケる、と判断したのだ、と)。

New York? No!
Port Washington!

その録音とプレス作業は Wisconsin Chair Companyが New Yorkに作った子会社、と思わせて、実は Wisconsin州 Port Washingtonの同社敷地内にあった The New York Recording Laboratories, Incorporated( 1917年から 1932年にかけて活動)で行われていました。
ただし一部の資料では、ごく初期の録音は、実際に New Yorkの Broadway 1140に「あった」 New York Recording Laboratories' Studioで行われた、としているものがありますので、録音スタジオだけは「ホントに」 New Yorkにあった時期があったのかもしれません。
そうして録音された作品は Paramountを始めとして、Broadway、Famous、そして Puritanという合計四つのレーベルからリリースされています。

その四つのレーベルは一応「使い分け」がなされてはいたようですが、さほど厳密なものでもなさそうで、けっこう複数のレーベルにまたがっている録音が存在します。
Paramountでは 3000番台でヒルビリーや古謡を扱っていますが、同じような録音が Broadwayの 8000番台にもあったり、ポピュラー音楽や器楽によるダンス用音楽は四つすべてのレーベルからもリリースされているなど、区別が無いのかと思うと Puritanではドイツ語で歌われる音楽などを 70000番台に持ち、スペイン系の音楽は Paramount 6000番台、ポーランドの音楽(そんなのまでやってんのね)は Broadwayの 100番台というように多少の棲み分けはなされているようですね。
ただ Puritanについては Wisconsinではなく、Connecticut州 Bridgeportの the B. D. & M. Companyに由来するもの、と示唆する資料も存在するのですが、そちらの方は裏付けがとれていないためなんとも言えません。
また Famousは Dimeストア向けだった、と言いますから今で言う「アウトレット」みたいな廉価盤だったのではないでしょうか。一方の Paramountが一応、トップ・レンジという扱いだったんでしょうね。

ただし、例のワニスに由来するものか、当初の製品のレヴェルはあまり高いものではなかったようで、当時のレコード盤の音質の平均的なレヴェルを下回っていた、とする資料が存在しています。
それでも、採算のためには、他社のためのプレス業務の下請けも行うようになりました。

Black Swan

Paramountにプレスを発注していたレーベルのひとつ、Black Swan Recordsは史上初の「黒人の、黒人による、黒人のための」レコードの供給を行った会社でした。
1921年の 5月に Harry Paceと W.C.Handyによって New Yorkの Harlemで設立された the Pace Phonograph Corporationは、19世紀のオペラ・スター、Elizabeth Taylor Greenfieldの愛称「Black Swan」をいただいて 1923年に改名しました。
このレーベルの最大の成功は Ethel Waters、Trixie Smith、そして Fletcher Hendersonの録音だったようです。
ただ、この短命なレーベルは 1924年に Paramountに買収されてしまいました。そして、それによって、以後黒人音楽のジャンルは Paramount Recordsにとっても「利益の上がる」分野となっていったのです。

Electrical recording

ところで Paramountはいわゆる「電気的吹き込み( Electrical recording)」への移行に遅れをとり、1926年の秋にようやく Marsh Laboratoriesの手を借りてそれが可能になりました。しかし Chicagoの East Jackson Avenue 64番地の Lyon & Healy buildingの 7階にあった Marsh Laboratories自体は1927年に経営シンジケートに身売りされており、それ以来あまりヤル気の感じられない Marsh Laboratoriesを Paramount Recordsは1929年に「切って」 Gennettに鞍替えをしてしまいます。

この時期の Paramountは electric recordingに移行した直後で、また 1924年に買い取った Black Swanのおかげでブラック・ミュージックのカタログが充実し、有力なプロモーター Mayo Williamsが次々と才能あるブルースマンを連れて来ていたころでもあります。
ただし彼自身は Paramountに籍を持っていたわけではないようですが。
またこの時期の Paramountのタレント発掘手法は他のメジャーのトップ・ダウン型決定とは対照的に、エンド・ユーザーから広く情報を集め(あなたの近くに素晴らしいミュージシャンはいませんか?ってなヤツね)、それがまた消費者の嗜好に合致した音盤を提供できる一因でもあったのではないでしょうか。

Artphone

一方で Paramountのディストリビュートを担っていたのは、St. Louisの Artphone**でした。

** ─1916年 9月に Missouri州 St. Louisで設立された Artphoneは、当初、蓄音器の製造会社でしたが、後には Paramountを介して収集したブルースのレコードを扱うサプライヤーとなったものです。
およそ1920年代にあっては、その後半に黒人の顧客を対象としたレース・レコードが販売されるようになり、それに伴って「家庭でも」それを再生できる「蓄音器」が徐々に浸透し始め、1930年代の中頃の市場調査では黒人の世帯、1,000サンプルの結果で、実に 27.6%がそれを所有していました。
その調査では同時に Radio Setの保有率も調査されているのですが、まだ 17.4%に過ぎません。
しかし、現代においてオーディオ・ファイルのダウン・ロードが CDの売上を侵食しているのとまったく同様に、放送というメディアが「レコード市場」それも特に低所得者層の多いレース・レコード・マーケットでは「大いなる脅威」として台頭を始めています。
そのことに Artphoneの副社長 Herb Schieleは1928年ころにすでに気付いていたようで、「確かに黒人の所得の低さを考えれば、Radio Setがそれほど急速に普及するとは考えられない。しかし、それもせいぜい 1、2年で逆転することは大いにあり得ることだ」として市場の動向に注目し、1928年度のラジオ・セットの販売総額が 650,000,000ドルとなって、1920年代初頭には「ラジオがレコード業界の脅威となることは無い」と判断していたレコード会社の経営陣も、「蓄音器」のみならず、ラジオ・セットの製造販売も手がけるようになり、さらに末端の販売店でもヴィクトローラなどの「蓄音器」よりもラジオ・セットに販売をシフトし始めて来たのを受けて1929年の 6月、Artphoneはレコードのサプライ事業から手を引くことを決定したのでした。
ただし、ラジオが即座にレース・レコードの市場を奪った、と決め付けるには多少の問題もあります。
当時の放送内容では、黒人音楽が On Airされることは稀であり、その意味ではレース・レコードを聴くことの「替わり」にはなっていなかったハズです。
しかし、ラジオの普及は黒人の聴く音楽の範囲をこれまでの「自分たちの音楽」中心から、白人たちの、と言うよりは、ラジオから流れてくる「すべての」音楽にまで広げたことも確かで、そのことがブルースに与えた影響が、逆に「ある種の」共通言語を持つ結果となり、それによって白人にもブルースが存在を認められてゆく獲得資質のひとつとなっていった、と言えるのかもしれません。


Black Tuesday

この Artphoneの撤退が Paramountの「ハシゴを外した」、と捉えることも出来ます。いくら良いソースを持っていても、それを販売するチャンネルを失っては「事業」としては成立しません。
Artphoneから、同社の通販の顧客リストを買い取ることにより、多少の流通は確保できましたがそれだけでこれまでと同様の規模を維持することは不可能です。
さらに 1929年10月29日、「Black Tuesday」と呼ばれた株式市場の大暴落に始まる「世界恐慌」の影響もあって、1932年にはレース・レコードの大手だった Paramount Recordsは最期の日を迎えます。

Milwaukee River

Paramountは Chicagoを始めとする各地や、Port Washington以外にも、Graftonの Milwaukee川に近く、Falls Roadの北にある古い編物工場(原文では an old knitting mill in Grafton)にスタジオを移し、そこでも録音をしていたようです。

そのようにして為された数々のブルースの録音は、内容的には素晴らしいものだったにせよ、当時の水準からしても、やや「プア」なシェラックで作られたレコード自体は耐久性などに問題があり、また強度も無いために、その多くが破損などにより失われてしまいました。したがって、現在もそれが残っていたとしたら、かなりな希少価値が生まれることとなります。
そして、さらにそれに輪をかけるような「神話」として、1932年に Paramountが事業から撤退した際に、プレス・マスターと、残っていた 78回転の SPが Milwaukee川に投げ込まれた、というものがありますが、どうやらそれは事実ではなく、それらは第二次世界大戦時まで、Port Washingtonの工場の跡地に出来た Simplicity Manufacturing Co.内に保管されていたらしいのですが、そこで次第に散逸してしまったもののようです。

John Steiner

1942年、John Steiner***は Wisconsin Chair Companyから全権を買い取って、Paramountの貴重な録音の復刻版の製作に取り組み、数々の名盤が復活を果たしました。
現在では George H. Buckによって彼の Jazzology Recordsグループの傘下に加えられていますが、当然、かっての Paramountとのつながりは存在しません。

*** John Steiner─ 1908年 7月21日、Milwaukee生まれ。Wisconsin大学 Madison校で化学を専攻して修了。1935年、Down Beat誌のレポーターで Okeh Recordsのプロデューサーでもあった Helen Oakleyや、後に Keynote Recordsに関わることになる Harry Limとともに、ジャズをサポートする機関 HCC - the Hot Club of Chicagoを設立。
それ以降、ジャズに深く関わり、Gene Krupa、Teddy Wilson、Wild Bill Davison、Punch Miller、Jimmie Noone、Squirrel Ashcraft、Bunny Berigan、Tommy Dorsey、Spencer Clark、Django Reinhardt、Duke Ellington、Red Nichols、Stuff Smith、Red Norvo、Jack Garnder、Bud Freeman、なんていう、ジャズ系のミュージシャンたちと仕事をしたようです。
自らのレーベル( Hugh Davisと共同で作った) Steiner-Davis labelでの録音でも知られていますが、やはり Paramountを復活させた男、として知られています。


このようにして「栄光の」 Paramountは形を変えて、その一部の録音が再び愛好家の手元に届くようになりましたが、散逸してしまった音源が甦ることは無さそうです。
ところで、映画の方では Paramount Picture というのが存在していますが、これはモチロン、本稿の Paramount Recordsとは「まったく」関係がありません。

go, go! go Johnnie go!